「CMソングの作詞家」という肩書で活躍し、世の中からもそのように認められた作詞家は、きっと伊藤アキラ氏だけだと思う。そしていつもCMソングの先頭にいた。作詞家というよりコピーライターと呼ぶべきかもしれない。いつもジャーナリスティックな目で時代と商品を明るく歌い上げた。日本のCM向上にとって重要な働きをしてきた人である。
話題作を数多く作りながら、本人の名前が有名CMの陰に隠れてしまう不思議なディレクターである。実験作のパイロット「ハッパふみふみ」も、日本初のカンヌ・グランプリのサントリーホワイト「サミー・デイビス・ジュニア」や若者の間で大流行したホンダ「CITY」にしてもそれぞれ世の中を騒がせている。しかし、「椙山三太らしさ」ってなんだろう、と思うと分からなくなる。作家としての個性よりも、作風から自由であると言う事の方が氏にとっては大切なことなのかもしれない。「CMの表現の枠が広がった」と思わせる所に、椙山三太氏はいつもいたような気がする。
博報堂でCMプランナーらしい人と言えば、沼上満雄氏だった。広告人というよりも、氏の「人間の善意とか、優しさを信じる世界」を人々は愛した。作家らしいと言えば、沼上氏ほど作家らしいプランナーはいないかも知れない。それでいてCMを心から信じてもいた。ソニーの「タコの赤ちゃん」も、資生堂の「名球会」もCMのことばが人々を幸せにすることを疑わなかった。幸せなCMプランナーでもあった。藤井達郎氏とはまた違った、CMプランナーの系譜が沼上氏のグループから生まれた。
初期の日本のCMは劇映画のスタッフによって始められた。グラフィック・スチールの撮影方法をCMに最初に持ち込んだのが操上和美氏である。映画手法からの脱却は、コミュニケーションデザインのひとつとしてのCMの念願だった。操上氏のCM進出によって、以後多くのスチールカメラマンが後を追うようにCMに参加した。日本のCM映像を飛躍的に向上させたのは操上氏の功績である。
TCJにいて柳原良平氏などと組んで名作「アンクルトリス」のアニメーションを担った。当時、ディズニー・スタイルのフルアニメーションが全盛の頃にリミテッド・アニメーションを導入して、そのデザイン的な動きで人々を驚かせた。一方、桃屋の「江戸むらさき」の三木のり平のアニメーションでは伝統的な手法で、子供から大人までの人気を集めた。60年代70年代をリードしたアニメーターである。