70年代から80年代へかけて、日本のCM音楽はそれまでのコマソンから、大きく変化した。
“ニューミュージック”を生み出した、シンガー・ソングライターたちのCMへの参入である。とりわけ、大瀧詠一は、CM音楽に対する特別な価値観を持っており、「ナイアガラ・CMスペシャルVol.1」というCM作品だけのアルバムも制作している。三ツ矢サイダー「Cider’73」、資生堂81冬キャンペーン「A面で恋をして」、AGFマキシム「熱き心に」など、CMソングから国民的な大ヒットを量産した。
彼のCMには、いつもつつましい市民の生活があった。人間の欲望をどこか哀し気に、そして愛し気に描いた。70年代までのCMは、人々の「夢の暮らし」を描くことに力を注いできたが、市川準の虚飾を取り払った市井の人々への視線は多くの人々の共感を呼び、沈滞しかけていた日本のCMに新しい活気を与えた。
映画監督としても成功したが、CMにも同じくらいの情熱を最後まで傾けた。ACC賞で、最多入賞ディレクター。
80年代は、個人の「作家性」が、沈滞しかけた日本の広告を動かした。CMプランナーもそんな時代の中にあった。その時に登場したのが杉山恒太郎だ。彼のCMには今までになかった「文体」というものがあり、どこか「知の快感」をくすぐるものだった。当時の大学生がCMへの憧れを持ったとも言われる「ランボー」(サントリー)にしろ、日本初のビデオCM「ピッカピカの一年生」(小学館)にしろ、「セブンイレブンいい気分」にしろ、彼の映像とコピーは時代を超えて人々の記憶に残るチカラがある。彼の洞察力が、CMを普遍に辿りつかせるのだろう。CMを「ジャーナリズム」と言いきる無二の人でもある。
1980年から現在に至るまで、ラジオCMひとすじ。ACCの入賞本数は150を超える。ラジオCMの衰退が言われる昨今だが、若いプランナーを叱咤しながらラジオCMをつくり続けている。「大賞」や「最優秀賞」も幾度かに及び、彼女の広い知識と技術が今のラジオCMを支えている。
実績もラジオへの情熱も圧倒的。日本のラジオCMにとって「大切な人」でもある。
80年代はスチールカメラマンがCMに大勢参入した時代ともいえる。しかし、彼らの美しい映像は時として静止した美しさでもあった。その中にあって中堀正夫はムービーカメラマンとしてカメラワークを駆使して映像に躍動感と奥行きを、そして物語を与えた。特に実相寺昭雄と組んだ一連のニッカウヰスキーのシリーズは美しさとともに、カメラワークの斬新さで人々を圧倒した。同時に多くの若いCMディレクターに映画作法によるストーリーテリングの技術を示唆した。さまざまなディレクターと組んでACC賞を数多く受賞(146本)している。
CMの創成期に、役割が確立されていなかった「スタイリスト」を、職業として自立させたのは高橋靖子だった。CM全体の構成を理解し、積極的に関与し、スタイリストとしての技術の重要さを業界に知らしめた。
山本寛斎のファッションショーや、デヴィッド・ボウイの衣装担当など、CMの枠を超えて「スタイリスト」を憧れの職業として確立させた。